「3.11-東日本大震災の直後、建築家はどう対応したか」展
東日本大震災では、多くの街が津波によって壊滅し、住宅やビルがこんなにも脆い存在だったことを見せつけられてしまいました。建築家は、建築に何が可能かを自問せざるをえませんでした。しかしながら、ただ黙って、ことの推移を傍観していただけではありません。各地の建築家が、復興に向けてさまざまな活動を展開し、提案をしています。
国際交流基金(ジャパンファウンデーション)では、これらの活動を展覧会として、積極的に国内外に向けて紹介してゆきます。被災地への想いが込められたその真摯な提案と活動の数々を通して、厳しい現状下にありながらも、それを叡智で乗り越えてゆこうとする姿を伝えていきます(展示パネル・模型等、約50点を展示)。
開催概要
主催:在ロシア日本国大使館、国際交流基金、ロシア国立建築博物館
実施時期:2012年5月26日~6月24日
実施会場: ロシア国立建築博物館別館「Ruina」 (Vozdvizhenka通り、5)
【展示内容】
① 第一段階:緊急対応
津波や地震で家を失ったり、自宅に戻れなくなった人たちへの緊急措置である。まずは最寄りの学校の体育館や教室、または文化施設などを避難所に変え、そこで被災した人々が受け入れられた。この段階ではスピードがもっとも要請され、建築家が本格的にできることは少ない。震災が起きてから考えても、ほとんど間に合わないからだ。とはいえ、建築界では、すぐに今後の救援のためのさまざまな組織が結成されている。またプライバシーがない避難所の生活を少しでも改善すべく、ダンボールや布などを用いて、簡易間仕切りをつくるなどの活動が行われた。
有名現代建築の避難所への転用事例、アーキエイドや日本建築家協会(JIA)東北支部の活動、山本理顕+横浜国立大学Y-GSAの仮設住宅への提案、工学院大学によるダンボールシェルター、齊藤正のZENKON湯、安東陽子らによるカーテンの間仕切りプロジェクトなど。
② 第二段階:仮設住宅
避難所生活の後、家を失った被災者に期間限定の住処を大量に供給することが求められる。東日本大震災では、校庭や公園、あるいは空地などに、5万戸以上の応急仮設住宅が建設された。これもプレハブの住宅の場合、生産のシステムと絡む部分が多く、震災後に根本的にできることは限られている。それゆえ、仮設住宅の配置に対する提案、付属施設の追加、生活空間のカスタマイズなどが行われた。また今回は被災規模が大きかったために、既存のプレハブ供給だけでは追いつかず、建築家が関与しながら、各地でさまざまな木造の仮設住宅も登場したことは特筆される。
坂茂によるコンテナを積んだ仮設住宅、伊東豊雄らのみんなの家、難波和彦らのログを用いた集会所(KAMAISHIの箱)、吉村靖孝+大和リースのEDV-01、宮城大学竹内研の番屋プロジェクト、新潟大学岩佐研による仮設のトリセツ、東北大学五十嵐研による塔と壁画のある集会所など。
③ 第三段階:復興計画
震災後、津波の被害を受けた街の高台移転が注目された。しかし、あらゆる場所で高台移転を一律に行えば、問題が解決するわけではない。すべての街において状況が異なるからだ。したがって、すぐれた空間のリテラシーをもち、場所の文脈を読む建築家は、復興計画の段階で最大の能力を発揮できるだろう。震災を契機に都市計画から国土計画まで、さまざまな変革のアイデアが提出されている。が、実現されるプロジェクトが数多く登場するのは、2012年以降になるだろう。2011年秋に実施された被災地の七ヶ浜町における保育所のコンペは、その最初の事例といえる。
針生承一らの閖上ルネサンス計画、芦沢啓治、西田司らのIshinomaki 2.0、若手建築家の復興計画を集めた展示企画、宮本佳明による基礎のまち、被災建物の保存プロジェクト、藤村龍至による雲の都市、高橋一平の七ヶ浜町遠山保育所改築プロジェクトなど。
④海外からの提案
東日本大震災のニュースは瞬く間に海外にも波及し、世界から大きな関心を集めた。地震と津波だけではなく、原発事故が起きたこともその一因だろう。グローバリズムの時代ゆえに、海外からの反応も早かった。欧米のチームが被災地で復興ワークショップを行ったり、アーキテクチャー・フォー・ヒューマニティがプロジェクトを立ち上げたほか、日本人村建設など、さまざまなアイデアが寄せられている。とりわけ、注目すべきは伊東豊雄が呼びかけた「みんなの家」プロジェクトだろう。これにはフランク・ゲーリーやザハ・ハディドなど、名だたるスター建築家も参加している。
(c)Resilient Ishinomaki